人は散る間際、最も美しく花を咲かす。それがジズの持論だ。
ゆるゆると失われるばら色、動きを止める肢体、あたたかみのない瞼。そのすべてが、至高の芸術となりえる。
その一瞬を閉じ込めたい。
彼の望みはただ、それだけ。
「ジズさま」
抑揚のない少女の声がジズを呼ぶ。
「どうしました」
ジズは指先でつまみあげたグラスをゆっくりと揺らしながら尋ねた。少女は静かに頭を下げると、やはり抑揚なく答えた。
「人間が、屋敷に迷い込んだようです」
ジズはぴたりとグラスを止めた。中で赤い液体が小さく跳ねる。
「それはそれは・・・」
やがて凪いだ赤を、ジズは一息に飲み下し
「おもてなしをして差し上げなければ、ね」
半月をにやりと深めた。
「イヤァアァアアアァアアア!!」
暗い静かな屋敷に似つかわしくない、若い女の声がこだました。
その女は闇雲に屋敷の中を走っていた。その後ろを、蝙蝠が追い掛けている。
「いやぁあ!!なによこいつらぁああぁあ!!」
女は頭を抱えながら叫ぶ。なんでこんな目にあうんだ。私がなにをしたっていうんだ!
「もぉぉお!!あんたら皆焼鳥にして食ってやるんだからあぁああ!!!」
速度を少しも緩めないまま女は涙目で叫ぶ。そんな女を笑うように、蝙蝠たちは追撃をやめない。
絶対、絶対食ってやる!!
「おやおや、それは恐ろしい」
突然、闇の中から男の声がした。女は息を飲む。そしてその瞬間、何かに勢いよく鼻をぶつけた。
「いっ・・・!!」
鼻をおさえ、女は一、ニ歩後ずさる。そして闇に目を凝らし、そこに立つものを見極めようとした。そこには人影が立っていた。女のぶつかったのは人であったらしい。おそらくここの主ではないか、と女は瞬時に思い、非礼を詫びようとし、そして男の異様ないで立ちに気いた。
長いマント、中世の騎士帽、それに、顔の半分を隠すカーニバルの面。
人ではない。ジズの姿に、女はあんぐりと口を開けた。
「あっ、あなたはっ・・・!?」
「静かに」
何者か、問おうとした女の口を、ジズは塞いだ。
彼は随分と騒がしい客がきたものだと静かに笑う。構わない、この館に入れたということは、その資格があるということだ。
女は口を塞ぐ手を退けようとした。力が込められているようには思えないのに、ぴくりとも動かない。
後ろから蝙蝠たちが近づいてきた。
「んんー!んー!!」
「静かに、カナリアのお嬢さん。彼らのような闇の生き物に、あなたの鳴き声は少しばかり刺激が強すぎる。少しだけその鳴き声をつぐめば、彼らはすぐに居心地のいい闇へと帰って行きますよ」
ジズの声が女の耳に囁いた。女はぐっとジズを睨む。しかしジズは虚空のように深い瞳を笑ませた。その目に、女はゆっくりとうごきを止め、息を潜めた。
ジズはそれを確かめると、迫る蝙蝠たちに五指を差し出した。そこで蝙蝠たちはぴたりと止まる。
虚空を撫でるようにジズの手が横へ動く。それに従うように、蝙蝠たちはくるりと方向を変え、羽音を立てながら四方に散っていった。
女はそれを目を見開いて見ていた。いったい彼はなにものなのだろうか。
向き直った彼女に置いた手を、ジズはゆっくりと外した。
「大丈夫ですか?」
覗き込まれ、女はどうにかこくりと頷きながら、いつのまにか痺れたように動きを鈍くしていた舌で、ゆっくりと尋ねた。
「あなたは・・・何者・・・?」
半月はただ穏やかに笑む。
「私はしがない人形技師のはしくれ、ジズと申します。美しいカナリア、あなたのお名前は?」
「私は・・・」
女は名をNameといった。
Nameは来月の誕生日、成人を迎える。その祝いをするために、離れてくらす両親の元へ向かっていたのだが、彼女は気づくと道に迷っていた。すっかり陽も落ち、途方に暮れていた時、Nameは突然この屋敷を見つけたのだ。
藁をも掴む思いで扉を開けたところで、屋敷に巣くう蝙蝠たちに襲われ、走り回っていたのだ。
「本当に、ひどい目にあったわ・・・」
一連の事情を話して聞かせると、ジズはくつくつと喉で笑った。
彼は今、Nameを長テーブルの食卓につかせ、向かいに座っていた。Nameはこの奇妙な光景に強い違和感を覚えていた。
あの後Nameはジズに大広間に通された。赤を基調とした豪奢な作りのそこは、シャンデリアの蝋の光があやしく揺らめき、壁のロマン主義絵画の妖艶な男女がこちらに向かって誘いかけるように微笑む、時を迷わすような広間だった。
そこで出された食事もまた贅を凝らしたものだったが、Nameはまだ一切それに手を付けていない。
疑っているのだ。ジズの正体を。ジズもまたそれを知っていた。
「Name、そろそろお食べにならないと冷めてしまいますよ」
「・・・わかってるわ」
Nameはぐっと背筋を伸ばした。右手で軽く髪を後ろに流すと、怖じけづく自分をごまかすように笑った。
「それで、あなたは何者なの?」
挑戦的に自分を射る目に、ジズは内心ほう、と思う。あまりこうしてジズを真正面から見るものはいない。それが人間ならなおのこと。
面白い。
「先程、名乗ったではありませんか」
「あなたのような人の場合、名前と職業だけじゃわからないこともあるんじゃない?」
「それがわからないかぎり、あなたは食事を楽しんではくださらないのですか?」
「知らない人から物をもらって食べるな。幼児教育の基本じゃない」
「それはそれは・・・」
ならば仕方がありませんねぇ、とジズは溜息を吐く。少しもそうは見えないのだけど。Nameは内心毒づく。ジズの余裕は同時にNameの焦燥を煽った。
ジズは自分の前に用意させた空のグラスの端を弾いた。それに応えるように、離れたところに立っていた少女がワインのボトルを持って近づいてきた。Nameは彼女を盗み見る。少女の動きは、まるで人形だ。顔や体のどこにも、少女自身の意思が感じられない。
人形職人と名乗った、人ではないもの。そしてこの抑揚のない少女。Nameは自分の想像にぞっと身を震わせた。
呑まれるな、Nameは自分に言い聞かせる。ジズは相変わらず優雅にそこに座している。
「Name、はじめにいいましょう。私はさほど、あなたたちから遠い存在ではありません」
「・・・どういうこと?」
Nameの問い掛けに、彼は夢見るような美しい音で答えた。
「闇は貴女にも咲いている」
告げられた言葉の不可解さに、Nameは眉をひそめる。
「私はたしかに闇に住むもの。あなたがたの常識と名を冠する、光の世界の住人とはそも存在を異にする。ですが、闇は悪でしょうか?夜の闇が、心の闇が、貴女のその美しい瞼の裏にある闇が、果たして悪と呼べるのか。醜悪と呼ぶには闇はあまりに慈悲深い。排斥する光とは異なり、闇はどこまでも寛大に私のような者をも包み込む。それでもなお、闇は悪であるや否や。
その答えをもつものなど、この世にはいないのです。ですから、この闇の中で呼吸ができる貴女と私の距離は、秩序が知れない限り、定義することは叶わないのですよ」
ジズの流麗な声でもって語られた講釈を、Nameはゆっくりとかみ砕き、そしていった。
「・・・私、国語力は弱いのよね」
その言葉にジズは哄笑した。まったくおかしな娘だ。Nameは居心地悪そうに居住まいを崩した。ジズの言い回しが難解すぎるのだ。
「つまり、私も貴女も、そう遠い存在ではないということです。」
結局、彼はそう締めくくり、ワインを一口、その唇に流し込んだ。
Nameは理解しがたいなりに、ジズの言葉を考える。遠い存在ではない。それがNameの彼が何者かという問いに対する答えだ。
「信用、してもいいということかしら・・・」
「ご心配なさらずとも、食事に毒を盛ったりなどしていませんよ。おかしな呪いもね」
Nameはジズを見つめる。悪魔はその麗しい姿と声で人を誘惑するというが、彼はNameと遠くはないという。
Nameはゆっくりと匙を握り、手近なスープをそっと掬い上げ、喉へ通した。
「・・・美味しいわ。高級品ね」
「信頼していただけたのですか?」
「少しはね。少なくとも、貴方は嘘はつかなそうに見えたの。紳士だもの」
「お言葉、感謝します」
ジズは礼をとった。椅子に腰を掛けたままだがその姿は中世の騎士のように美しい。
Nameはその後、ぱくぱくと景気よく皿を片付けた。もともと道を迷い、屋敷で蝙蝠に追い掛けられ空腹だったところを、ジズとの会話に神経を使い、それは絶頂に達していた。
Nameの食事の間、ジズはなにも口にしなかった。ただ時折ワインだけを嗜みながら、Nameに適当な話題を振っていた。
やがてNameが食事を終えると、大広間の入口から幼い少年が入ってきた。少年は手に先程の少女と同じくワインを持っていた。華奢の細工を施されたボトルと古びたコルクが高級な年代物を思わせる。
「食後に一杯、お付き合いください」
ジズはそういうと少年に空のグラス二つに半分ずつ、酒を注がせた。酒はひどく淡い赤色だった。
Nameがグラスをとると、ジズは言った。
「乾杯をしましょう」
「何に?」
「では、二人の出会いと、今宵の晩餐に」
「・・・いいわ」
Nameはグラスを差し出した。カチン、と軽やかな音をたてて、グラスはぶつかる。ジズの乾杯の声にNameの声を重ねた。そしてぐっと、グラスを煽った。薄い赤の向こうで、ジズの仮面が揺れている。
半分ほど飲んで、Nameはグラスを置く。そして、何か違和感を感じた。酒は上等だ。苦みもなく、アルコールも低いように感じる。
それなのになぜ、グラスを置いた今もジズが揺れて見えるのだろうか。
「国語力は弱いのでしたっけ、ね」
ジズの片側だけの唇が、奇妙に歪む。いや、歪んでいるのはNameの視界か。Nameは額を押さえた。引きずり込まれるような眠気が襲ってくる。
「ジ、ズ・・・なにを・・・」
「私は食事にはなにもしていないといいましたが」
瞼を開けていられない。ばっくりと口を開けた闇に足を搦め捕られた。
Nameは堕ちていく闇の中で
「ワインにはどうかとは、言いませんでしたよ」
くつくつと笑うジズの声を聞いていた。
「・・・殺してしまわれたのですか」
「いいえ、眠っているだけです」
崩れ落ちたNameの体を抱き起こしながら、ジズは少女に答える。
弱々しいがNameは呼吸をしていた。ジズは小さく吐息を吐くNameの蒼白な横顔を見下ろし、静かに笑んだ。
ああ、失われるものはかくのごとく美しい。
「彼女を飾り立てなさい。それは美しく」
「かしこまりました」
少女と少年がジズに代わりNameを抱えると、二人は広間を後にした。ジズはその姿を満足気に見送り、呟く。
「君は賑やかで美しいカナリアだ。ゆっくりと、その声を奪うとしましょう」
彼は笑う。
人は散る間際、最も美しく花を咲かす。それがジズの持論だ。
ゆるゆると失われるばら色、動きを止める肢体、あたたかみのない瞼。そのすべてが、至高の芸術となりえる。
その一瞬を閉じ込めたい。
彼の望みはただそれだけ。
たとえそれが、狂気になろうとも、闇は静かに包み込む。
半月は笑みを深め、闇はいっそう暗く狂気の人形職人をその手に深く抱き込んだ。
もはや戻れぬ、闇の中。
Fin.
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