「赤箱には触るな」
それが先月死んだ祖父の口癖だった。
祖父は無口な人だった。厳格にしかめた眉、比べて少ない口の周りのしわ。白い下着のような上下を常に着込んだ、わかりやすく古い男であった。その祖父が、赤箱に関しては雄弁であった。
赤箱というのは、祖父の部屋にある四方五十センチぐらいの小さな棚のことである。
箱と呼ぶ理由は、それが全て紙で作られているからだろう。赤地に、白の花の咲いた和紙が貼られており、枠の部分は黒で縁取りされ、取っ手の部分のみ鉄で出来ている。民芸品のようだ。
私は幼い頃、この小棚が綺麗でとても好きだった。くれとねだったこともあった。しかし祖父は頑なにそれを拒み、私に言ってきかせた。
この箱は、持って行っちまう。だから触っちゃならねぇ。
しわがれた低い声がそういうのを何度も聞いた。
「もっていく?」
私は舌足らずに聞き返した。祖父は鋭い眼光を赤箱に向けた。
「あの箱に物をいれると、皆無くなっちまうんだ。なにもかも、消えちまう。そういうもんなんだ」
祖父の声は本気であった。今思えば、あんなにしっかり見えていた祖父は、既にぼけていたのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら私は祖父の部屋で、その赤箱を見ていた。
ジージーと聞き苦しく鳴く蝉の声が開け放たれた障子の向こうから注ぐ。カタコトと、私が佇む場所と少し離れたところで、母が衣装箪笥の整理をしていた。細い廊下を挟んだ曇り硝子の奥では、狭い台所でお湯を沸かすシュンシュンという音が聞こえる。祖母がお湯を沸かしてるのだ。
全てが古い部屋だが、中でも赤箱は夏の陽射しにそぐわないほど、古く見えた。
赤箱に触れるな、という割に、祖父はこれを処分しようとしなかった。なんでもそれは元々祖父のものではないらしく、ここに祖父母が越してくる以前からずぅと、この家にあった物らしい。
だから処分しなかったのだ。
「お母さん、これ私が持って行ってもいいかな?」
「部屋にあるもんは皆持っていいっていってたわよ」
母はこちらを見向きもせずに言った。忙しいのだ。祖父は無愛想な性格の割には友好関係が広く、その連絡や様々な瑣事でひどく手間取り、遺品の整理もこんなに遅れてしまった。
煩わせるのも悪いだろうと、私は赤箱を祖父の部屋から静かに持ち出した。赤箱の中はいつも空だからとても軽いことを知っていた。
私は祖父の形見、というものを一つ持ってみたかった。そしてこれが、私と祖父の間で一番深い繋がりのような気した。
実は、私と祖父はそう仲が良くはなかった。
私がこの家に泊まりにきても祖父は私になにか物をくれたりとか、特によくはなそうとしたり、普通に一般的な祖父がするようなことは特にしなかった。
ただ一度だけ、祖父は私にビー玉をくれたことがあった。私はそれを、この赤箱に入れた。四つある棚のうちの一番下に入れた。大事に無くさないようにだった。
それが祖父に知れたとき、祖父は私にはじめて赤箱には触るなと言った。ビー玉は返された。その時祖父は、なんだか辛そうな、ぐっと唇を引き下げて眉を寄せる、やっぱりいつも通りの顔をしていた気がする。
それくらいしか、私には祖父の思い出がない。だからこの前のお葬式でも、白々しいほど涙がでなかった。とても肉親が死んだ家族の顔ではなくて、泣き濡れる親族や知人たちの中で私はぽっかりとういていた。
あまりに悲しみがなくて、私自身驚いてしまった。そして申し訳なかった。だからこの赤箱は、戒めなのだ。
祖父を忘れないように、自分の部屋の片隅にでも置いておこう。
そうしなければ、私は本当にぽっかりと、祖父を忘れてしまいそうな気がした。
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